子育てあれこれ

出産・育児・ぼやき

第一子の出産を振り返る HELLP症候群編

分娩室から救急車で運ばれるとき、もう目を開けていることさえ出来なかった。

ストレッチャーで部屋から運び出される際に、看護部長と名乗った女性が、

「絶対大丈夫だから、私も同じめに遭ったけど、今こうして生きてるから。戻ってきて!」

と、叫んでいるのが聴こえた。
けど、頷くことも出来なかったし、自分がこの危機的な状況を脱するイメージさえつかなかった。

何度か参加した両親学級で、司会進行をしていたベテランのおばさん……おばあちゃん? 看護師さんが、
ストレッチャーで運ばれていくわたしに、
「呼吸よ、あのとき教えた呼吸よ……」と、道すがら話し掛けてくれて、それで、少し落ち着いて、ゆっくり呼吸をすることが出来た。

いかんせん、目が開かなかったので、どういう状況で話し掛けられていたのか、よく分からないけど。

(でも、大学病院でこの呼吸してたら、大丈夫?! 苦しいの?! ってスタッフに凄い心配された)

救急車がサイレン鳴らして走る道すがら、辺りはすっかり暗くなっていたようだったが、全く時間が分からない。

角を曲がったり、何かの拍子で急停車する度に、激しく出血している感覚があった。 傍らの院長に伝えたけど、院長、救急車の中じゃ何もできない。。
医者も医療器具なければただの人。

三途の川らしきところに、亡くなった祖父や祖母が立ってるイメージや、
産院で最後に抱かせてくれた、赤ちゃんの温もりが脳裏に甦って、もう一度、白い産着にくるまれた、本当にちっちゃな息子を抱き締めるまでは死にたくない、死ねないって思った。


産院から大学病院まで、救急車で20分くらいだっただろうか。
ストレッチャーが病院内を駆け抜ける。 救急隊の皆さん、ありがとうございます。機敏で、無駄口一切無くて、本当にありがたかったです。
救急車も、心なしか飛ばしてくれている気がしてました。命にかかわる最前線に働く人たちを尊敬しています。


集中治療室らしき部屋に運びこまれ、院長が、待機していた数名の治療チームに状況を説明すると、院長は退室していった。
治療チームの医師たちは、わたしがまだ意識があって、既に輸血も開始されているせいか、ちょっと呑気で、和やかな雰囲気を醸し出していた。

まだ若そうなリーダー格の男性医師が、
んじゃ、ちょっと診ますよ~みたいなことを言って、詰め込まれていたガーゼを抜いた途端、凄まじい量の鮮血が飛び散って、白衣の裾を濡らしたのが視界の隅に映った。
と同時に、意識が一瞬飛んだ。

すると、室内に蔓延していた和やかムードが一変して、医師や看護師に一気に緊張感が走ったのが伝わった。

かなり痛いけど、我慢して!!

って、ガーゼらしきものを大量に詰め込まれて、これがまた本当に痛くて衝撃的だった。

猛烈な吐き気を催して、吐きそうです……っていったら、看護師さんがすぐガーグルベースを差し出してくれて、上手く吐瀉物をキャッチしてもらえたのが、我ながら凄いと感心した。

看護師さんは、結構大変そうだった。

過呼吸に陥ったわたしにビニール袋を差し出したり、同じ質問をしてしまったりして、これまた若そうな麻酔科の医師にたしなめられていた。
今思うと、この麻酔科の医師は、看護師さんを指導するくらい余裕があるんですよ、と、平静を装おうとしてくれていたんだと思う。

でも、過呼吸は……たぶん、いきなり笑気麻酔かけようとしたためかと思います。
それでようやく、麻酔科の医師も
「苦しくないように麻酔かけるから大丈夫だよ」
って説明してくれたので、ずっと死にたくない、って脳に言い聞かせて意識を保っていたわたしは、警戒を解いて眠りについたのでした。
全身で死にたくない、って思ってたから、脳が意識を失うことに、凄い抵抗していたのね。




目が覚めたら、枕元に、旦那と母と妹が、たっていた。

実は分娩当日は、弟も手術を受けていて、実母はそちらに付き添っていた。
彼は未婚で、術中付き添う家族がいなかったので。

旦那からの連絡で、わたしが大学病院へ救急搬送されたことを知った母は、急いで電車に乗り、約2時間の距離を戻ってきた。
(弟が入院していた病院より、わたしが搬送された大学病院の方が、実家に近い)

そして、たまたま実家に帰省中だった学生の妹が、最寄り駅まで母を車で迎えに行き、旦那と一緒に処置室の前で待っていてくれたのだった。


わたしが処置を受けているあいだ、3人が病状説明を、受けていた。
頚管裂傷、弛緩出血、妊娠高血圧症候群、HELLP症候群による、大量出血とのことだった。
一時は、子宮を摘出する可能性もあると言われていたけれど、何とかバルーンのみで止血することが出来た。

弛緩出血だけじゃなくて、頚管も裂けていたのか……とか、HELLP発症したのか……とか、色々恐ろしい状況に陥っていたことが判明。
出産は本当に命懸け。
この、一連の流れの中で、歯車が少しでもずれていたら、わたしきっと死んでた。
息子も、お母さん知らないままだった。


結局、その後も血圧も下がらないし、貧血も治らないし、酸素飽和度も80%(普通は95~99%くらい)だし、前の産院に戻れる病状ではなかったので、赤ちゃんを大学病院に呼び寄せて、しばらく治療を継続することになった。

現代の医療に、足を向けて寝られない。

この大学病院に搬送されなかったら、たぶん死んでいただろう。
今の、第二子の主治医は、このときの治療チームのリーダーで、命の恩人です。
なので、彼が帝王切開を決めたのであれば、わたしはそれに従わなくてはならないのでしょうね。